東京大学文学部思想文化学科哲学専修課程合同誌「ドクサ」

δόξα(ドクサ)について

東京大学文学部思想文化学科哲学専修課程合同誌「ドクサ」

通販を開始しました。(頒価:700円)こちらからどうぞ。

論集『δόξα(ドクサ)』は、東京大学文学部思想文化学科哲学専修課程有志によって、2014年度卒業論文の成果を発表する機会をつくるために企画されました。提出された卒業論文や、その副産物の翻訳・論文から構成されています。

提出された卒業論文は、本来であれば審査をする専修課程の先生、あるいは校正を依頼する友人・先輩などだけに読まれるものであったのですが、それだけではもったいない、というのが企画意図にあります。

それぞれの論文・論考・翻訳の概要については、ここでは触れずそれぞれの「はじめに」等を参照していただくことにしますが、中世ドゥンス・スコトゥスから、現代哲学まで多岐にわたっており、ご興味を持たれたところからページをめくっていただければと思います。

2015年5月4日の文学フリマにて頒布いたしました。駒場書籍部への委託を予定しています。また、寄稿者に問い合わせて直接購入いただくこともできます。

目次と概要

第1号掲載の論文・論考・翻訳について、それぞれ紹介してゆきます。

「電子的意味空間における表象理論」の試論
水上朔 @exfina
水上のこの論考は、彼が2014年度に執筆した卒業論文を継承する形で、人工知能のための表象や記号の理論(の草案)を構築することを目標としたものです。
本稿の目標は、筆者が2014年度に執筆した卒業論文を継承する形で、人工知能のための表象や記号の理論(の草案)を構築することです。私は卒業論文でおもにルース・ミリカンという表象の理論を取り上げ、言語の意味理解という観点から議論を整理しました。ミリカンの論は、言語哲学的な観点から言うならば、人間の言語理解の仕方を固有機能や志向的記号の概念で説明するもので、なるほどこりゃそれなりに正しいっぽい、そう簡単には崩せないような気がする、と思えるものでした。
さて、しかし卒論で引っ張ってきたような表象の議論を情報科学もとい人工知能の分野に持ち込もうとすると、数多の問題点が噴出して、ほとんど何も解決していないような気持ちになります。ミリカンの論は機能主義的で、このことは高田(2004)がタイトルで「目的論的機能主義」と呼んでいることからも伺えます。この立場はもちろん心の哲学的な史実の文脈で言及されるような機能主義とは異なるのですが、結局は固有機能という単位で語るために、システムがその機能を実現するメカニズムには触れていません。ミリカンが展開した表象理論は、表象を扱う機構が固有機能として持つ働きについて言及するものであって(もちろんそれも重要な仕事なのですが)、その機構の中身を述べるものではなかったのです。
ということなので、表象理論と生身の人間にはまだ大きな開きがあります。この間隙、つまり哲学的に構築された理論と、現実との乖離というものは、往々にして自然科学がもたらす経験的な証拠によって埋まっていくものだとは思いますが、じゃあ人間のすべてがわかったと人類が慢心することになるには、あと百年はかかる気がします。そんな悠長な進歩を待ってはいられないので、何か手を打たねばなりません。
それなら現実の側の解像度を落として理論の側に近づけてしまえば良いじゃないか、というのがクリエイティブなソリューションです。目論見としては、人工知能という胡散臭いものを持ちだし、今の人間の知識で実装可能な機能を持たせた擬似的人間を作り、そこに表象理論を与えてやれば、何やら意識っぽいものが見出せるのでは、という感じです。この課題のためには、表象理論のほうも人間ではなく人工知能のほうに寄せてあげる必要があります(応用をするだけですが)。そこで要請されるのがタイトルの「電子的意味空間における」という文言を冠した表象理論です。サイバーに格好良くしたかっただけなのでちょっと大げさですが、名前が決まっていたほうがやる気が出るので、形から入るのも悪いことではないかなと思います。
本稿は大きく3つの章からなります。1章では卒業論文の要点を抜き出す形で目的論的機能主義(意味論として捉えるのなら、目的論的意味論や生物学的意味論と呼びます)を導入します。2章では表象という観点から1章の議論を整理し、鍵となる概念について説明します。3章では電子的意味空間を定義して(できるのかなぁ)、その応用的な概念規定をします。
具体的な実装のモデルにまで踏み込めるのが望ましいのですが、現段階ではそこまではっきりと見えていません。繰り返しになりますが、これから議論していくことはあくまで理論であり、実装のためにはまだまだ課題がたくさんあるのです。そのあたりの話は最後の章で。
論理学体系第6巻第12章 ほか
ishiteen @ishiteen12
ishiteenはJ.S.ミル『論理学体系』から、ミルを読む上で『自由論』と『功利主義論』を整合的に解釈するキーと見なされる「技芸Art」の概念が導入される、第6巻第12章の翻訳を寄稿しています。
本稿のねらいをキャッチフレーズ風に表せば、「ミルをもっと知りたいあなたへ」でしょうか。「『自由論』のくどい説明に飽き飽きしたあなたへ」でもいいでしょう。いずれにしても、本稿は、J・S・ミルを既にある程度以上学んだ人には不必要だと思います。そもそもミルは19世紀イングランドの思想家で、『論理学体系』を含む主な著作は現代に近い形の英語で書かれていますから、読むのは難しくありません。それに、『論理学体系』は、少し古いものですが、大関将一先生の訳が出ています。ですから、この訳は、ミル研究には一切寄与しないことでしょう。
しかし、ミルを学び始めた人、とりわけ『自由論』や『功利主義論』を入り口としてミルに関心を持ち始めた人にとって、そこから先へ進むためには大きなハードルがあります。第一に、この2つの主要著作が一見矛盾しています。片方では自由だ自由だと言いつつ、もう片方では功利計算で善悪を判断しようとしているのですから。第二に、『自由論』も『功利主義論』も、根拠もなくミルが好き勝手言っているだけに見えるかもしれません。これらの著作に閉じこもって読む限りでは、そこで言われていることの根拠を探すのは、ミルに贔屓をしない限り難しいでしょう。こうした問題に直面した人がまず読むべきものが、この『論理学体系』、とくに第6巻の第12章なのです。
『論理学体系』は全6巻からなる大著で、そのほとんどは、正しい推論のやり方とはどういうものか、ということに割かれています。そして、あれこれ論じた挙句、人文科学において推論はどのようにすればよいかを論じ始めます。それが第6巻です。その中でもトリを飾るのが、道徳哲学のやり方を論じた第12章です。要するに、ここで訳した部分は『論理学体系』の大トリなわけです。そして、Ryan (1987) 以降は、ここで導入される「技芸Art」の概念が『自由論』と『功利主義論』を整合的に解釈するキーと見なされ、より重要とみなされるようになりました。上で、両著作からミルに関心を持った人が本著作を読むべきだと言ったのは、本著作が、いわばミル哲学の背骨として、『自由論』と『功利主義論』の橋渡しをするからにほかなりません。
余談ですが、私は卒業論文で「中期J・S・ミルの幸福概念の変化に関する考察」と題し、『論理学体系』における主要な議論が版ごとに大きく書き換えられている様子とその背景を論じました。具体的には、第7節においてミルは幸福の増進が究極的目的だと論じ、『功利主義論』への展開を予感させますが、このような記述は初版と第2版にはないのです。幼少期より功利主義者としてスパルタ教育を受け、自らも功利主義者とされるミルが、なぜこの段階では功利主義の宣言に躊躇したのか、非常に疑問です。私は、前述の卒業論文で、この点に関して1つの視点を提供することができたと考えています。その論文は諸事情で今回の掲載は見送りましたが、議論をより精緻化し、こちらはミル研究にほんのわずかでも寄与できればと考えています。
本稿は、トロント大学版ミル全集(CW)を底本とし、『論理学体系』第6巻の冒頭に引用されたコンドルセ『人間の精神の進歩に関する歴史的図面の素描』からの引用、および第12章(第3版)の全文を、原文から離れないよう細心の注意を払いつつ、できるだけ平易な言葉で訳しています。読みやすさを重視したため、場合によっては文の構造が原文のものと大きく異なる場合があります。また、訳語の選定にあたっては、先に言及した大関訳『論理学体系』をはじめ、川名・山本訳『J・S・ミル功利主義論集』、塩尻・木村『自由論』を参考にし、言葉の平易さと定訳との互換性とを鑑みました。いずれにしても、一通りこの訳を読み終えたら、次に読む時には原文を隣に置いて読むことをおすすめします。最も、原文を読んだほうが早くて精確だということは言うまでもありませんが。
命題集註解(Ordinatio)
ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス著
七草しろ訳 @Nanakusa17
七草は、スコトゥスの『命題集註解』の第三区分、「第一部 個体化の原理について」の「第一問 質料的実体は自らによって、ないし自らの本性によって個別者あるいは単一者であるのかどうか」の翻訳を寄せています。
本稿は Duns Scotus, Ordinatio II, d. 3, p. 1, q. 1 の訳である。翻訳の底本として、ヴァティカン版スコトゥス全集 Doctor subtilis et Mariani Ioannis Duns Scoti opera omnia, studio et cura commissiois scotisticae ad fidem codicum edita, praeside P. C. Balić, t. VII, Civitas Vaticana, 1973, pp. 391-410 を用いた。
Ordinatio の第二巻第三区分第一部の第一問から第七問までで扱われるのは個体化の原理 principium individuationis の問題であり、第七問において天使における個体化の原理が問われることになる。第六問までは、そのための予備議論としての性格付けが与えられ、質料的実体における個体化の原理の問題が問われることになる。ここで訳出したのは第一問であり、そこではスコトゥスにおける重要な概念である「共通本性」の導入がなされ、アヴィケンナの「馬性は馬性でしかない」という格率のもと、本性の中立無記的なあり方が述べられることになる。
この訳を最後まで読めばわかることであろうが、スコトゥスにとってなぜ個体化の原理が問われねばならなかったのか。スコトゥスは、個別者に、存在論的に先立つしかたで本性を認めたのであり、個別者が実在するには、本性がなんらかの原因によって、そうした個別性へと規定されている必要がある。本性が形相と同義であることを踏まえれば、スコトゥスのこうした考えも、哲学史的に理解しやすいことと思われる。その本性が、それ自身によって ex se 個別的でないのだから、本性とは別に、本性が〈これ〉として特定される原因が必要になる。それが個体化の原理と言われるものである。第一問は、本性と個体化の原理との関わりがいかなるものであるのか、ということをスコトゥスが語る重要なテクストであるといえる。
ここに訳出した Ordinatio の日本語訳として、渋谷克己「命題集註解(オルディナティオ)第二巻第三区分第一部--個体化の原理について」、『中世思想原典集成第 18 巻 後期スコラ学』上智大学中世思想研究書編訳・監修、平凡社、 1998 年所収 (pp. 217-316) を参考にした。『原典集成』には、第一部の第一問から第六問までの訳が収められている。 Ordinatio のこの箇所について、日本語のものとしては、小川量子「ドゥンス・スコトゥスにおける個の問題」、『西洋思想における「個」の概念』中川純男・田子山和歌子・金子善彦編、慶應大学出版会、 2011 年所収 (pp. 89-145) が(やや異なる問題・焦点を持ちつつも)理解の道標となりうるだろう。
デカルト『考えごと(省察)』
(デカルト簡単翻訳)
ルネ・デカルト著
kentz1(@kentz1)訳 @kentz1
kentz1はデカルト『省察』を『考えごと』として、たいへんに平易に訳したものを寄稿しています。(このなかで唯一、自身の卒業論文と関係のないものになっていますが、一番読みやすく愉快なものになっているかもしれません)
まえがきというのはだいたい言い訳の言い換えです。この翻訳で僕は平均的な中学生が読めるような文章にするということを心がけました。哲学の文章はだいたい難しくなりがちです。けれどもその難しさというのは二種類あります。一つは用語が難しいというもので、もう一つは用語以外が難しいというものです。用語が難しいというのはしょうがないものです。哲学の本の専門用語とは数学の本の数式みたいなもので、それは勉強しないと読めないものです。でも、数学の本で数式以外の部分をわざわざ難しく書く必要はありません。同じように、哲学の本で専門用語以外の文章をわざわざ堅苦しく難しく書く必要もありません。
さて、現代の日本語の書き言葉は話し言葉と離れたものになっています。特に哲学や、人文系の本はその離れ方がひどくなっています。本棚から哲学の本を取り出して、読み上げてみましょう。僕らが街角でお話をするしゃべり方とは全然違います。その原因は専門用語のせいではなく、文章のスタイルのせいです。
文章のスタイルが難しいのならば、哲学はほんの少しの限られたひとたちだけのものになってしまいます。ところが、哲学がたくさんのひとに受け入れられ、もてはやされたことがちょっと前にありました。フランス現代思想と呼ばれた運動です。どうしてフランス現代思想はたくさんのひとに受け入れられたのでしょうか。
メルキオールの『フーコー 全体像と批判』という本にこんな指摘があるそうです。哲学にはスタイルと方法という二種類の要素があります。英語圏の哲学はスタイルはアカデミックで方法は分析的です。ドイツ語圏の哲学はスタイルはアカデミックで方法は分析的ではありません。そしてフランス現代思想はスタイルはアカデミックではなく方法も分析的ではありません。
この「スタイルがアカデミックではない」という原因がたくさんのひとに受け入れられる哲学を生み出したのならば、ある可能性がでてきます。スタイルがアカデミックではなくて方法が分析的な哲学の可能性です。そしてこの哲学はたくさんのひとに受け入れられるかもしれません。
そこでスタイルがアカデミックではなくて方法が分析的な哲学の例として、デカルトを挙げたいと思いました。デカルトの『考えごと』は物語のような書き方をしていながら、その考えの流れは緻密で分析的な面もあります。デカルトはスコラの「アカデミックで分析的」な哲学を「アカデミックではなく分析的」に移し替えたようにも思えます。
フランス現代思想がそのあいまいさで高すぎる滝が滝壺に落ちる前に消え去るように雲散霧消し、現象学が方法を磨き過ぎて行き場をなくし、分析哲学がアカデミックが行き過ぎて難解となり悪いスコラ化していく現状で、一つの新しく、かつ伝統的な哲学としてデカルトによる「アカデミックでなく分析的」な哲学を見てみましょう。行き詰まって革新のない哲学にこの哲学が一つの可能性を開くはずです。
デカルト『考えごと』には1から6までの考えごとがあります。今回訳したのは、そのうちでも僕たちの好奇心にヒットしやすい1と2です。1はあやしむこと(懐疑)を、2は心の本性を考えています。2には有名な「コギト」が登場します。3は神がいることを、4は本当とウソについて、5は物体の本当の特徴と神がいることを、6は物体があることと心とからだの区別について考えています。おもしろいので、よかったら読んでほしいです。
(訳の段落番号はAT版に従っています)
ルチアーノ・フロリディの情報倫理
:万物を包摂する情報=環境倫理の構築

sakai_cyk @sakai_cyk
sakai_cykは、オックスフォードの哲学者、ルチアーノフロリディの情報倫理学を主題にその特徴や可能性について論じる卒業論文を提出しました。本稿はそれに若干の加筆修正を加えたものです。
20世紀後半のコンピューターの出現以降、ICT(情報通信技術)は我々の生活のあらゆる領域に浸透するに至った。そうした中でプライバシーの問題やデジタル・デバイド等々様々な問題が発生し、そうしたICTの関わる個別的問題に対応するものとして「情報倫理」という言葉は用いられてきた。しかしながら、ICTは今や人間の生産消費活動の基盤の一つとなっており、我々のあらゆる思考・行為を条件づけるものの一つの要素となっている。このような事態を前にして、人文的観点からの情報についての思考のひとつを展開する西垣通は「二十一世紀とは、デジタルICTに支えられた情報的な世界観を前提に社会的な価値観を考察しなければならない事態といっても過言ではない」と言う。こうした状況において、個別的問題のみでなく現実全体に関わる倫理を情報的視座から構築するような情報倫理は、日本においてはあまり認知されていない。だが海外においては先端的な研究がいくつか見られる。本論文ではそのなかでも最も注目されているものの一つであるルチアーノ・フロリディ(Luciano Floridi)の情報倫理(information ethics, IE)について取り扱う。
彼は情報哲学・情報倫理学で知られるイタリア人哲学者で、現在はオックスフォード大学セントクロスカレッジの哲学科教授・オックスフォードインターネット研究所リサーチディレクター・オックスフォード上廣応用倫理センター特別研究員を務めている(Oxford Internet Institute 2014)。IEについては1990年代からその理論を発表している。
彼の研究は日本ではまだ情報や人工知能等の分野を研究する一部の科学哲学・応用倫理学者にのみ知られているといった程度であり、「情報倫理」について思想的・哲学的考察をおこなっている試みも西垣ら一部の論者に限られている。フロリディのIEを知ることのできる文献としては2014年12月現在、「情報倫理の本質と範囲」が邦訳・出版されているものの、概略を紹介することを主眼においたその論文では彼の用いる用語の定義等不十分な点も多い。
このような状況で、彼のIEの理論的特質を明らかにすることが本論文の研究の第一の目的である。文献として主題的に取り扱うのは、彼のIEの研究を体系的に集成したFloridi(2013)The Ethics of Informationである。
第二の目的は、IEと環境倫理との接続関係はいかなるものなのかを解明することである。IEはそれに先立つ研究分野として、人工知能の倫理、コンピューター倫理等があるが、なかでも環境倫理から直接の影響が大きいのである。具体的には、
・倫理的共同体の範囲の拡大と、
・それにともなう人間非中心主義的傾向、
・さらに人間非中心主義に伴い、人間非的存在者の固有価値(intrinsic value)を認め、
・個体でなく圏域や系全体も倫理的尊重の考慮にいれる
といったことが挙げられる。環境倫理とIEとを第2・3章で登場する語を先取りしつつ(やや単純化を含みながらではあるが)比較するならば次ページの表1のようになるだろう。環境倫理の一つの方向性に、倫理的共同体、すなわち、倫理的尊重を享受しうる存在者の集合を拡大してゆく傾向(動物、植物、土地そのもの、生態系……)が認められる。人類の歴史を、そうした倫理的共同体の拡大の歴史として見る例としてはNash(1989)における次ページ図1のような年表がある。フロリディのIEは、そのような企てをさらに拡張する。すなわち、人間・他の生物・自然物・人工物をふくむ万物をいったん情報的存在者としてとらえ、情報的存在者(infomational entity)にはすべて固有価値のある倫理的受容者(moral patient)であるとして、その破壊・衰退を倫理的行為者(moral agent)は出来る限り防止しなければならないと主張するのである。
このようにIEは環境倫理との相似・拡張的性格をもつのであるが、それはひるがえって考えれば環境倫理がうけていた批判を同様に受けうることを意味している。そのような批判について環境倫理とはちがう方法論をもつIEはどれほど応答できるのか、いかに応答するのかについていくつかの論点を挙げ取り扱うこととする。
ハイデガーの技術論について
-立てること(Stellen)と立ち方(Stand)の存在論-

せらりひょん @k1s
卒業論文として提出された本稿は、ハイデガーの技術論(『技術への問い』およびその基となった『ブレーメン講演』)を通常の多くの技術決定論とは異なる、壮大な存在思想に裏打ちされた「存在論的決定論」として読み解いてゆくものとなっています。この存在論的技術論において、技術が存在論的にどのようなものとして規定されているのか、を問い、すなわち、それはハイデガーの言う技術とはどのような存在なのか、そもそもそれは存在者であるのか、はたまた別の何かであるのかを問うことがこの論文の目的となっています。
1.1 目的
本稿ではハイデガーの技術論をとりあげる。技術論とは、後期ハイデガーにおける技術に関する議論を指し、中心文献としては特に『技術への問い』およびその基となった『ブレーメン講演』を指す。これまで、日本のハイデガー研究においてハイデガーの技術論はあまり主題的に扱われてこなかった。しかし、ハイデガーによる技術に関する思索は、従来の技術概念とは全く異なる。特徴的なのはそのスケールの大きさである。従来の技術概念においては、技術は我々の世界を構成する一つの要因であるが、ハイデガーは技術を存在するものすべてが登場する場としての存在論的枠組みを原理的に規定するものだとしている。
ハイデガーの技術論を語る際に、多くの論者はそこから何らかの実践的な意味合いを読み取ろうとしてしまう。確かに、ハイデガーが何らかの価値判断を行っていることは事実である。それは「危機」や「救い」といった言葉に端的に示される。ハイデガーの技術論はまたその独特の歴史性をも特徴とするが、それもまたこの傾向を強める。現代が批判され、そうではなかった時代(例えばギリシア時代)が示される中で「どうすればよいのか」という問いが生じてしまうのは当然とも言える。特に、2011年3月、原子力による災害を経験して以降、日本のハイデガー研究者はこの技術論から、このような災害が発生する状況への解決策を取り出そうとしてきた。しかし、ハイデガーの言う「危機」とはこの災害状況のような何か身体的な安全性を問題にしているのだろうか。
実際には、ハイデガーの技術論から技術に対してとるべき行動を見出そうとする試みは、すぐに壁にぶつかることになる。なぜなら、ハイデガーの技術論は「人間や社会が技術のあり方を規定したり選択したりできるということ自体を、批判している」からである。ハイデガーにとってはむしろ、技術こそが「人間や社会のあり方を決定する」。この意味でハイデガーの技術論は技術決定論の一種であると言い得るかもしれないが、そうだとしても通常の多くの技術決定論とは異なる。それは先述のように壮大な存在思想に裏打ちされた、「存在論的決定論」なのである。結果、ハイデガーの技術論に安直に何らかの解決策を求める試みは、論者はハイデガーに何らかの物足りなさを感じる、という事態が生じてしまう。 何度も述べるように、ハイデガーの技術論は存在論である。それを正しく把握することなしに、ハイデガーの技術論は語りえない。本稿では、ハイデガーのこの存在論的技術論において、技術が存在論的にどのようなものとして規定されているのか、を問う。すなわち、それはハイデガーの言う技術とはどのような存在なのか、そもそもそれは存在者であるのか、はたまた別の何かであるのかを問うことである。
最後に、このようにハイデガーの存在論を取り出すことの意義についても触れておきたい。先に確認したように、ハイデガーの技術の規定は、従来の技術概念と一線を画す。この、これまで哲学で論じられてきた技術についての規定とは違った新たな視点は、哲学が技術について新たな形で語ることを可能にするのではないだろうか。

1.2 方法
本稿の目的はハイデガーの技術への視点を取り出すことにあった。したがって、その際とかく論者をミスリードするハイデガーの価値判断の妥当性に深く立ち入ることはしない。なぜなら、技術が良いのか悪いのか、あるいは現代が「危機」にあるのかといった評価は、ハイデガーの存在論を理解した上で改めてその妥当性を論じられれば良いことだからである。また、歴史観についても同様である。ハイデガーの言う、例えばギリシアが「本当のギリシア」とどの程度一致していたのかを判断をせずとも、その歴史観を通じて技術がどのように論じられているか、は確認することができる。
したがって、本研究は、基本的にハイデガーの文献を精読することによって行われる。現代の特定の出来事や事物を持ちだしてハイデガーの「予言」と比較したり、あるいはハイデガーの論じる歴史観、たとえばギリシア観が正しいかを確認するためにアリストテレスの原典を精読してハイデガーの解釈の「正しさ」を検証することはない。
さて、本稿で参照する文献であるが、まずはハイデガーの技術論の中心的文献である『技術への問い』を基本文献とする。また、『技術への問い』の基となった『ブレーメン講演』も技術論を理解する上での基本的な文献として参照する。その際、特に『物』講演と『集-立』講演が参照されることになる。さらに、いくつかの概念についての理解を深めるために、必要に応じてそれ以前の著作も参照した。

1.3 構成
本書の構成を述べる。まず、第2章においては技術論の中心的文献である『技術への問い』を改めて存在論的視点から読み、重要な点を要約するとともに、本稿において検討する問いを設定する。詳細は本論に譲るが、最終的にここで提出される問いとは以下の5つである。
(1)かつてのテクネー、ポイエーシスとしての開蔵(Entbergen)はいかなるものであったか。
(2)すべてのものを用象(Bestand)にするような開蔵とはいかなるものか。
(3)人間に(2)のような開蔵をさせる、現代技術の本質「集-立(Ge-stell)」とはなにか。
(4)人間を開蔵へと派遣する命運とはどのような事態を指しているか。
(5)芸術が(技術と本質に親しいが、それと根本的に相違して)ポイエーシスに属する開蔵であるのはなぜか。
第3章では、まずは(4)を問う中で、『技術への問い』を貫く概念である「開蔵(Entbergen)」という概念、及びその「命運」と「歴史」が徐々に明らかになる。さらに、第4章では、第3章の視点を踏まえて、「ポイエーシスとしての開蔵」について明らかにする。すなわちここでは(1)が問われる。さらに、物、道具、作品、という存在者の比較を通じて(5)の問いもここで解明される。第5章ではようやく全貌の見えてきた「開蔵」の「歴史」が、『技術への問い』の基となった『ブレーメン講演』において新たな「立てること(Stellen)」及び「立ち方(Stand)」という概念によって整理されていることを確認する。その際、現代技術もこの歴史のうちに位置づけられる。第6章では、第5章で明らかになった歴史を手掛かりにして、技術の本質である「集-立(Ge-stell)」と、それが人間に強要する「用立てること(Bestellen)」という概念がどのようなものかを確認する。ここでようやく、残った問いである(2)及び(3)が問われることになる。さらに、人間への「挑発(Herausfordern)」という性格について分析する。最後に第7章では、結語としてまとめ、今後の展望を述べる。

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